回想 雲海に浮かぶ竹田城

2017/05/03

 数年前から但馬の竹田城は、日本のマチュピチュと言われ大人気のようだ。マチュピチュは見たので、日本のマチュピチュと言われも違和感はほとんどない。入場者数は、年間50万人もあるという。現在は、史跡保持のため入城には、入場料500円が必要である。当然である。豊後の岡城は、随分前から徴収していた。
 筆者は、2004年頃からお城巡りを始めたが、竹田城は、2006年5月31日に訪問している。その日の朝は素晴らしい雲海の発生があり、11年も経っているが、そのときの光景は鮮明に記憶に残っている。ある事情で十分な時間がとれるようになったので、前から思っていた竹田城訪問の回想記を書いてみることにした。そのとき撮った写真は、235枚である。この写真を何回も何回も見直していると鮮明に記憶がよみがえってきた。なお、当時の入場者数は、年間2万人程度だったようだ。
 回想の前に竹田城の歴史をWikipediaなどを参考に簡単に記しておく。
 築城は、伝承であるが、永享3年(1431年) 山名宗全、その後の主な改修者は、羽柴秀長、赤松広秀(斎村政広)、主な城主は、太田垣氏6代(初代太田垣光景)、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀である。赤松広秀のとき今の総石垣の城になったようだ。あるWebページに、「竹田城の普請には13年の歳月を要し付近の百姓を多数動員したため、百姓は耕作することが出来ず『田んぼに木が生えた。』という言い伝えがある」と。そして慶長5年(1600年)家康の命により赤松広秀の自刃、その後廃城になった。
 2006年5月末、母の介護で日立から松江へ行くとき竹田城を訪問することにしネットで調べたところ、雲海が発生する朝がよいとあった。竹田城は、播但線の竹田駅の北側にあり、福知山線の和田山駅から1駅である。そこで、5月30日に和田山駅付近のビジネスホテル「てつや」に宿泊し、翌朝早く竹田城へ行くことにした。
 31日の朝、播但線初発5:21のディーゼルカーに乗車し竹田駅へ、着いたときは、軽く靄がかかており夜が明けたばかりだったので薄暗かった。
 竹田城へは、竹田駅裏の北側から直登800メールである。ところが、登山口に着くと注意看板が設置されており次のように書いてあった。

注意!! 台風23号の被害の為「竹田城跡」への歩道は徒歩で登ることができません。(竹田小学校ルートは徒歩で登山可)大変ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。朝来市和田山町観光協会」

 これにはまいった! 地図は、持って来たが、範囲が狭く竹田小学校ルートは載っていないのである。全くわからないので、人に聞くしかない。ところが、朝早いので歩いている人はいない。民家の多そうなところへ行けば何とかなるだろうと思って、駅の西の方へ歩いて行った。少し歩くと門が開いたお寺があった。そうだ、お寺さんに聞けばよいと思って門をくぐり庫裏のベルを押したところ、奥さんらしい方が出て来たので、聞いたところ、「主人がよく知っていますが、今出かけています。すぐに帰ってきます。」との返事。待つこと数分でご主人(住職)が帰ってきたので、聞いたところ、「送りましょう」との返事、これには驚いた。彼が言うには、今朝の雲海の発生状況がよいので、行ってみようと思った。雲海の出来がよいときは、行って写真を撮っていると。そこで、車に乗せてもらって竹田城跡へ向かった。実に幸運だった。このような幸運は、二度とないだろう。

 車に乗ること7,8分で大手門下方の駐車場に着いた。そこには、城跡の説明看板があり縄張り図も載っていた。見上げると見事な石垣が見えた。

 駐車場から登って行くと立派な石垣が見えてきた。ふと後ろを振り向くと雲海に山々が浮かび素晴らしい眺めだった。

 石垣まで行き右折すると大手門の石垣が見えた。桝形になっており桝形の中の石段を上るとそこは北千畳だった。そしてすぐ左に三の丸への虎口が見えた。

 三の丸虎口の石段を登って三の丸に出たとき素晴らしい景色が目に入った。下に示す。左に「武の門」の石垣、右遠方に本丸の石垣群が見えた。


三の丸からの展望 左側は「武の門」の石垣 右側は本丸石垣群

 三の丸から二の丸方面へ行くところに食い違いの虎口があった。この虎口には、「武の門」という杭が立っていた。この虎口を出たところから少し先に二の丸の石垣があった。

 二の丸から左の方へ目を移すと遠方に石垣群が見えた。南二の丸、南千畳である。


二の丸から南二の丸、南千畳を望む

 いよいよ本丸である。天守台には、梯子が架けてあり登ることができるようになっていた。現在は、天守台には登れないらしい。

 本丸からの眺めを下に示す。

 本丸や天守台からの南方の眺めは実に素晴らしかった。同じような写真を何枚も撮ったが、一番バランスのよさそうなもの1枚を下に示す。


天守台からの南二の丸、南千畳を望む 手前左は天守台石垣(6:03)

 上の写真は、壁紙になります。フルサイズ1920×1080pxの写真を載せておきますので、ほしい方は、下のリンクの上で右クリックし出て来たメニューの中の「対象をファイルに保存」をクリックして保存してください。

壁紙用写真

 同じような写真を何枚も撮ったが、少し角度の異なるものを下に載せておく。

 以後、あちこちを廻り城跡の素晴らしさを堪能した。まずは、花屋敷から。
 花屋敷の言われはわからないが、西の方向にあるので、他のお城で呼ばれている西の丸に相当するところかもしれない。

 次は、南千畳方面である。本丸の南虎口から降りて行った。


南千畳から本丸を望む 左は南二の丸石垣 中央は南二の丸虎口 右は二の丸石垣

 南千畳の東側からの北方展望は、逆光であったが、素晴らしい石垣群を見ることが出来た。


南千畳から北方を望む 左から天守台、二の丸、三の丸、北千畳の各石垣

 次は、北千畳方面である。
 本丸側から北千畳方面は、逆光で見難いが、本丸下から一望したものを下に示す。


右から二の丸石垣、「武の門」石垣、三の丸、一段下は北千畳


三の丸から本丸を望む

 5:45に大手門下の駐車場に着き、写真を撮りながら素晴らしい城跡を歩きまわった。竹田城は、天空の城とか、雲海に浮かぶ城とか、日本のマチュピチュなどと言われているが、竹田城の本当に素晴らしいところは、石垣の崩壊がほとんどなく、縄張りが明確にわかることだ。400年間よくもっていると驚嘆している。また、天守台から縄張り全体が見渡せることは実に素晴らしい。山城として岩村城、高取城、備中松山城、岡城が有名であるが、竹田城が一番気にいっている。
 送ってくれた住職さんは、仕事があるので、早く下山したが、別れるとき、「天気は良く、眺めがよいので何時間いても飽きません。ゆっくり鑑賞してください。」と言ってくれた。
 一通り見終わったときは、7:00であった。以外に時間が経過していなかった。思ったより狭いお城だろうか。Google earthで測定してみると、天守台から南千畳の先端まで174m、天守台から北千畳の先端まで173m、天守台から花屋敷先端まで100mだった。やはりあまり大きくはない。
 天気は良く、眺めは素晴らしかったので、住職が言うようにゆっくりしようと思った。しかし、誰もいないところで一人で長時間留まっていると苦痛になってきたので下山することにした。この城跡訪問中に人を見たのは、本丸から南方を見たとき南千畳先端の木の下に1名いるのを数秒間見ただけだった。
 下山は、北千畳の大手門から出て竹田小学校へ向けて下って行った。

 住職には、大変お世話になったが、寺院名は記憶していたが、名前を聞き忘れたので、下りてから寺院へ行きお礼を述べ名前を教えてもらった。そして、後日、礼状を出した。

 寺院の通りを歩いていたら、太田垣光景氏と赤松広秀氏の墓地案内があった。当時は、よくわからなかったが、今、調べてみると共に竹田城の城主だったことがわかった。
 以上で竹田城の回想は終わるが、素晴らしい城址見学であった。

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