丹生都比売神社由緒

一、御由緒
 当社の創建は古く、少なくとも今から千七百年前のことと伝えられる。現存する日本最古の祝詞のひとつである「丹生大明神告門」によれば丹生都比売大神は天照大御

由緒説明板
神の妹神で、紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。
また、播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な神領を寄進されたとある。「丹」は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに「丹生」の名前がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を採掘する一族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は八十八社、丹生都比売を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社である。
 御子の高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、空海を高野山へ導いたと今昔物語にある。空海は、日本人の心に根ざした仏教を布教するために、大神の御守護を受けて、神々の住む山を借受け、真言密教の総本山高野山を開いた。そして、古くから日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、当社と高野山に於いて、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成された。当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで神と仏が相和して五十六人の神主と僧侶で守られてきた。
 高野山に参詣する表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社の境内の入口で、まず地主神である当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習であった。
 現在の本殿のかたちは、今から八百年前の鎌倉時代に、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、合わせて四殿となり、室町時代に火事により、復興されたものである。

一、社殿と文化財
 朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗な本殿は、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されている。他に文化財としては、国宝の銀銅  太刀、重要文化財の木造狛犬四対、木造鍍金装神輿、金銅琵琶等多数ある。