備前国一宮
石上布津魂神社、安仁神社、吉備津彦神社

 Wikipedia によると備前国一宮は、石上布津魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)、安仁神社(あにじんじゃ)および吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)と3社である。下の地図からもわかるように石上布津魂神社は、交通の便の悪い山の中にあり、安仁神社もかなり田舎にある。




石上布津魂神社
 この神社は、岡山県赤磐市石上にある。地図を見たところかなりの山の中にあるので、どうすれば行けるかネットでいろいろ調べたところ、この地区は、御津コミュニティバスが運行されていることがわかった。津山線の金川駅で降り、御津コミュニティバスの尺森・上伊田・佐野線で神社近くまで行くことができる。この方面へは、2009年11月にお城巡りで行ったことがある。金川駅東南にある石垣造りの徳倉城と金川駅すぐ北の城山にある金川城である。
 2012年2月18日、松江を8時58分の特急やくもで発ち、10時29分岡山着、津山線に乗り換えて12時30分に金川駅に着いた。御津コミュニティバスは、早い時間だと石上まで行けるが、12時53分発は、佐野行で、乗客は、私一人だった。佐野からは、徒歩で3.6kmある。佐野あたりは、かなり田舎であるが、道路は、舗装されておりときどき車が往来していた。約40分歩いたところで、神社の看板が立っているところに着いた。そこは、神社への分岐点であって、神社は、そこから左折した先である。


佐野の風景とコミュニティバス


神社への分岐点

 看板には、「石上布津魂神社の由来」として、「当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐おろちを退治した剣を奉斎したと記す古社である。延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。山頂は磐座で、禁足地である。」と書いてあった。この看板の地図は、神社の全容がわかるので下に載せておく。



 今来た道を左折して神社の方へ進んで行くと最初の鳥居があった。そこを過ぎて行くと参拝者用の駐車場があり、そこからは山道を登っていくことになる。山道を登っていくと手水舎に着いた。手水舎で手を清め石段を登って行くと拝殿が目の前であった。拝殿で参拝し本殿などを拝見した後、山の上の本宮へ向かった。
 Wikipedia によると
 「現在の祭神は素盞嗚尊とされているが、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられ、明治3年(1870年)の「神社明細帳」では神話の記述に従って十握剣と書かれていた。この剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されている。
 延喜式神名帳では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興した。次代綱政は延宝2年(1674年)社領20石を寄進し、宝永7年(1710年)に社殿・神楽殿を造営した。その後も歴代の藩主の崇敬を受けた。
 明治6年(1873年)に郷社に列した。祭神を素盞嗚尊に変更したのはこのときと見られる。明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建された。」
とあり、池田綱政造営の本宮は焼失している。

 拝殿の左手の道を登ること約10分で本宮に着いた。本宮は、祠で旧本殿の石垣の上に設置されていた。


拝殿


本殿

本宮


磐座の禁足地

本宮への道


池田綱政公創設時の絵図

 参拝が終わったあとは、再び徒歩で佐野まで歩いた。途中、女性3人が乗った車が止まり「石上布津魂神社はあとどのくらいですか。」と尋ねられた。一宮と言われるだけあって初めて訪れる参拝客もかなりいると感じた。
 佐野で御津コミュニティバスに乗ったが、やはり乗客は私一人だった。そこで運転手にいろいろ話し掛けてみた。
「こんなに乗客が少なくてよく運行しますね。」と尋ねると、「御津町は、昔は御津郡御津町で、いろいろな工場が沢山あり裕福な町であったため、乗客が少なくてもコミュニティバスを運行していました。ところが、数年前に岡山市と合併しました。岡山市は、貧乏市ですが、合併前のいきさつがありコミュニティバスを廃止はしないようです。」と。
「岡山市は、夕張市並みの危ない市でテレビでもやっていました。裕福な町がよく貧乏な岡山市と合併しましたね。」と聞くと、「町長が熱心で町長に押し切られたようです。」と。
「岡山市との合併は、間違っていると思いますよ。税金ががっぽり入ってくる町や村は、合併していません。茨城県の東海村、九州天草島の苓北町などは合併していません。」と、このような話をいろいろと交わした。最後に「乗客が少なく空車が多いので、4月からは、乗車は、電話で受け、電話があったときのみ運行するようになるので、お客さんは運がよかったです。」と言われた。コミュニティバスを電話で予約とは、初めて聞く話なので、ネットでこれを知ると躊躇するだろうと思った。
 この後は、岡山から新幹線で新大阪へ行き、江坂のスーパーホテルに入った。次の日は、片埜神社参拝である。


安仁神社
 安仁神社は、式内社であり、所在地は、岡山県岡山市東区西大寺一宮895である。地図を見たところ海岸には近いがかなりの田舎のようである。
 行き方をネットで調べたところ、赤穂線西大寺駅前から両備バスの神崎経由牛窓行に乗り宿毛で下車し、その後2.5km歩けば神社へ行けることがわかった。
 2012年3月19日、宿泊した岡山駅前のベネフィットホテル岡山を発って、7時26分発の赤穂行に乗車、7時44分に西大寺に到着、西大寺駅で7時48分発の神崎経由牛窓行の両備バスに乗車した。8時過ぎには、宿毛に着いたので、神社に向かって歩き出した。この日は、天気がよく空は晴れ渡っており、気持ちよく歩くことができた。歩くこと約30分、8時30分頃には神社入口に着いた。入口付近の看板には、『この神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に載っている備前国唯一の名神大社です。安仁神社周辺は、郷土自然保護地域で、自然と一体になって郷土色豊かな風景を形づくっています。』とあったが、一宮という字はなかった。鳥居を二つ通って行くと右手に手水舎があり、その先に随神門があった。随神門を通って石段を登ると目の前に拝殿が見えた。拝殿で参拝した後、本殿を拝見した。

宿毛の分岐


安仁神社への道 左遠方に神社が見える

神社入口


随神門

拝殿(逆光)


本殿

 Wikipedia によると、この神社の主祭神は、五瀬命であるが、明治時代に定められたものであるという。古文献では祭神については様々な記述があり定かではないと。
 また、Wikipedia の「歴史」のところでは、
 『創建の年代は不詳である。社伝では、神武東征の際に五瀬命が数年間この地に滞在し、神武天皇が即位の後に五瀬命ら皇兄たちをこの地に祀って「久方宮(ひさかたのみや)」と称したのが起源としている。
 国史の初見は『続日本後紀』の841年(承和8年)2月8日条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあるもので、平安時代後期に編纂された『延喜式神名帳』では備前国では唯一の名神大社に列せられている。元々は当社が備前国一宮となるはずであったが、939年(天慶2年)における天慶の乱において当社が藤原純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる。その後、備前国一宮の地位は天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(岡山市北区一宮)に移ったと伝えられる。』
 となっており、この神社が、一宮であった期間は短い。神社のどこを見ても「一宮」という字は見当たらないし、また、この神社は一宮会に入っていない。Wikipedia で、旧一宮となっているだけである。


吉備津彦神社
 お城巡りで、秀吉の水攻めで有名な備中高松城や古代の城である鬼ノ城を見学したとき、吉備線を利用したが、そのとき吉備津神社に国宝建造物があることを知ったので、そのうち行ってみようと思っていた。
 2009年春に参拝を思い立ち、その年の4月14日、岡山から吉備線に乗り吉備津駅で下車し備中国一宮である吉備津神社に参拝した。吉備津神社の東側に吉備の中山があり、この山の西側が備中国で東側が備前国である。この中山の東麓に備前国一宮である吉備津彦神社があるので、西側から中国自然歩道を歩いて東側へ行き吉備津彦神社に参拝することにした。下の案内図は、吉備津神社前にあった案内板である。



 吉備津神社を参拝後、神社の右側から中国自然歩道へ入った。残念ながら雨が降っていたため傘をさしての歩行となった。しばらく歩くと左側の長い石段を上がったところに中山茶臼山古墳(御陵)があった。 この古墳は、全長120mの前方後円墳で、4世紀初期の築造で、四道将軍として大和から派遣された吉備の国を治めた吉備津彦命の陵墓として宮内庁が整理管理していると看板に記載されていた。古墳は、木が生い茂っていて前方後円墳を認識することはできなかった。
 この中山のあちこちには、古代の遺跡がいろいろあったが時間の都合で立ち寄らなかった。ただし、沿道にあった環状石籬は見ることができた。
 歩くこと1時間で東側(吉備津彦神社側)の吉備の中山登山口に着き、まもなく吉備津彦神社の御池に辿り着いた。


中国自然歩道入口

自然歩道

中山茶臼山古墳(御陵)

環状石籬

東側の吉備の中山登山口

吉備津彦神社の池

 随神門を通って拝殿へ行き参拝した。この神社の社殿は、拝殿・祭文殿・渡殿が続き最後に本殿となっており他の神社では見かけない構成になっていた。
 ご祭神は、吉備津神社と同じ大吉備津彦命である。


表参道 背景は吉備の中山

随神門

拝殿

拝殿を横から

左から拝殿、祭文殿、渡殿、本殿

本殿

 神社のホームページによると、ご由緒は、
 『当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。後に佛教が入り正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え神宮寺や法華堂も建ちいよいよ御神威は広大無辺に広がり古代気比大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されてきました。』
となっているが、この神社は、吉備国の三分国後、備中国の吉備津神社からの分祀である。
 吉備津彦神社の参拝が終わると神社前の備前一宮駅から電車に乗り松江へ向かった。
(2012/05/01)