備後国一宮

吉備津神社、素盞嗚神社


 備後国一宮は、Wikipedia によると、吉備津神社(きびつじんじゃ)と素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)の2社である。吉備津神社は、福塩線の新市駅の北2km弱のところにあり、素盞嗚神社は、上戸手駅のすぐ西方にある。
 新市駅南方の城山には、石垣造りの相方(さがた)城跡があるが、2009年3月1日にお城巡りの一環として訪れている。このとき、移築されている相方城の城門を見学するために素盞嗚神社に参拝している。

吉備津神社
 吉備津神社は、広島県福山市新市町宮内400にあり、吉備国が備前国、備中国、備後国に分国された後、備中国一宮の吉備津神社から備前国の吉備津彦神社とともに分祀されたものであるから、主祭神は備中国の吉備津神社と同じ大吉備津彦命である。延喜式新名帳にはないので、その後の分祀と考えれる。
 2012年3月18日朝7時30分、高速バス広島‐松江線のグランドアロー号に乗車し広島へ出発した。広島から新幹線で福山へ、福山で荷物をコインロッカーに預け福塩線に乗り換え、新市へ13時頃着いた。
 新市駅に着くとすぐに県道26号線を北に向かって歩き出した。12分程度歩いたところで、吉備津神社の縦看板が見えてきた。看板の右側は、神社の御池になっており橋の先に厳島神社が見えた。看板の左側へ行くと吉備津神社である。150m程度進むと表参道の鳥居に着いた。


新市駅

県道26号線の風景

吉備津神社表参道入口

看板と御池

 鳥居を入って左側に由緒書きの看板があったので、下に示す。



 参道を進んでいくと下随神門があり、これを通って行くと右手に櫻山神社、左手に大山祇神社があり、更に進むと石段があり石段の右手に秋葉・四所神社があった。石段を登ったところには上随神門があった。この門を通って行くと神楽殿があり、その先に福山市の重要文化財に指定されている拝殿があった。拝殿の右側を通って石段を上がったところに本殿があった。この本殿は、国の重要文化財に指定されていた。この本殿には、千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)がないので他の神社で言う拝殿のように見えた。理由は、大吉備津彦命は、比較的新しい人であるからだろうと考えたが、備前国の吉備津彦神社や備中国の吉備津神社には、千木・鰹木があるのでそうは言えないようだ。


下随神門

右手遠方に櫻山神社

上随神門

神楽殿

拝殿

本殿

 本殿で参拝した後、本殿左手を少し上がったところに小さな神社であるが、式内社であるという多理比理神社があった。石碑には、御祭神は、息長帯姫神(姉)、息長日子王(弟)とあった。吉備津神社は、式内社ではないが、この小さな神社が式内社であるというので、不思議に思った。また、本殿右手には、吉備津彦命と御親族十二柱を祀った十麻里二柱神社があった。


式内社 多理比理神社

十麻里二柱神社

 そのほか摂社や末社が沢山あったが省略する。
 吉備津神社参拝終了後は、来た道を戻り新市駅前から素盞嗚神社のある上戸手駅へ向かった。新市駅から上戸手駅までは、せいぜい1.2kmである。歩いている途中、相方城跡のある城山が見えた。よく見ると石垣が見えるが、曲輪には、テレビ塔が林立しており興ざめである。


相方城跡がある城山


素盞嗚神社
 この神社には、2009年3月1日に相方城の移築城門を見学に来たとき参拝しているが、吉備津神社参拝のために新市まで来たので、再度参拝することにした。
 この神社の所在地は、広島県福山市新市町大字戸手1−1で、式内社(小社)である。主祭神は、神社名のとおり素盞嗚命で、奇稲田姫命(くしなだひめ)、御子神の八王子(やはしらのみこ)を配祀している。備後一宮を名乗っているが、表示は、神社入口の石碑にのみ記されており控え目である。
 神社入口から鳥居、随神門、神楽殿、拝殿、本殿は、一直線に配置されていた。
 参拝者は、私一人であった。


神社入口

神社名の肩に「備後一宮」が見える

随神門

神楽殿

拝殿

本殿

 この神社の北側には、相方城の城門が2棟移築されている。これを下に示す。城門2の横に説明板があり、「これらの城門は、高麗門が普及する以前の薬医門であることから、現存する関ヶ原の戦い以前の城門は、当地の二門と島根県益田市にあるのみで、貴重である。」と記されていた。益田市の門とは、益田市内医光寺に移築された益田城(七尾城)の大手門であると考える。


相方城の移築城門1

相方城の移築城門2

 この素盞嗚神社の「祇園祭」は、非常に有名であるという。神社入口には、「祇園祭の由来」という石碑があり詳しく説明したあったので、参考までに以下に転記しておく。ここの祇園祭が京都の祇園祭へと伝搬して行ったと記載されている。

『祇園祭の由来
 当神社の例大祭「祇園祭」が、いつ頃始まったものかを示す古文書は残念ながら現有せず、その始まりの時期は定かではありません。
 奈良時代の初頭より我が国では疫病の流行や大地震により数多くの人々が亡くなり「死」に対して強烈な畏怖心をいだくようになりました。当時、疫病の流行や自然災害は、この世に恨みを持って亡くなった人たちの祟りによるものと考えられました。そこでいつ襲い来るか計り知れぬ災害から逃れ、疫病に罹らぬようにするため、死者の怨霊を鎮めなだめる儀式「御霊会(ごりょうえ)」が行われるようになりました。これが後に「祇園信仰=祇園祭」へとつながっていきます。
 「祇園信仰」とは、お釈迦様が修業された「祇園精舎」を護る「牛頭天王(ごずてんのう)」と高天原を追われてのち出雲国で「やまたのおろち」を退治された「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」を共に祀る信仰です。
つまり外国(とつくに)の誠に恐ろしく力の強い仏様「牛頭大王」と我が国最強の荒ぶる神様「素盞嗚尊」を一体化し、より強力な神格にして祇園社の主祭神「祇園神」としたのです。
この神の絶大なる霊威を以てすれば、いかなる怨霊の祟りをも鎮め、平穏な世を取り戻すことが出来ると考えられたのでした。
 各地に伝わる様々な伝承や資料からすると祇園信仰発祥の地はここ福山市新市町戸手に鎮座される「疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)」現在の素盞嗚神社であると考えられます。
 疫隈國社より播磨国明石浦(兵庫)−播磨国廣峯神社(姫路)−北白川東光寺(京都)に至り、祇園感神院(八坂神社)へと伝搬していったことは明らかです。』
(2012/05/16)