越中国一宮 高瀬神社、気多神社、射水神社、雄山神社


 Wikibediaによると越中国一宮は、射水神社、気多神社、高瀬神社、雄山神社の4社であり、いずれも一宮会に入っている。旧社格では、射水神社が国幣中社で一番社格が高い。下の図からわかるように各社は、かなり広い範囲に点在している。



高瀬神社
 高瀬神社の所在地は、富山県南砺市高瀬291で、城端線福野駅南東約3kmのところにある。式内社で旧社格は、国幣小社、祭神は、大己貴命(大国主命)である。
 2012年6月11日、能登の気多大社を参拝した後、羽咋を発って津幡を経由して高岡に着き、城端線に乗り換えて福野に12:24に着いた。ここからは、南東方向に約3.4kmの歩行である。「芸術・文化のまち 福野」という看板があったが、駅前の地図には、高瀬神社は、載っていなかった。
 歩くこと35分で一ノ鳥居が見えるところまで来たが、神社入口へは、更に7分程度要した。


城端線福野駅

国道471号線を歩いて行く

一ノ鳥居

神社入口の二ノ鳥居

 二ノ鳥居の左側に由緒の石碑があったので、下に紹介する。

【由緒】
 当神社の鎮座は遠く、農耕文化の芽生える弥生時代の頃とされています。
 延喜五年(九〇五)の神名帳にも登載された七座の筆頭にあり、御神徳の顕著な神社として皇室の崇敬も厚く、奉幣使の派遣もあり越中一宮と称されております。
 宝亀一一年(七八〇)従五位下の神階を奉られ年を歴ると共に昇叙を重ねました。治承四年(一一八〇)には正一位に列せられて、大いに宸襟を賑わしました、時代の推移と共に社頭衰頽に及ぶこともありましたが、明治の御代になりまして社運漸く顕われて、明治六年(一八七三)県社に 大正一二年(一九二二)には崇敬者が念願する国幣小社に昇格されました。
 昭和二三年(一九四八)社殿の造営成りて神苑は面目を一新するに至りました。
 境内の功霊殿は昭和二四年(一九四九)旧本殿を移築したもので、砺波地方の先賢文化功労者並に戦没者勇士の英霊を祀ってあります。敬具

 二の鳥居をくぐって行くと右手に手水舎、左手は社務所や受付になっており正面に三ノ鳥居が見えた。三ノ鳥居をくぐって橋を渡ると拝殿である。拝殿で参拝し右側に回って本殿を拝見した。拝殿に向かって左側に旧本殿を移築した功霊殿があった。


三ノ鳥居 奥に拝殿

拝殿

本殿

旧本殿を移築した功霊殿

 帰りの列車の関係で大急ぎの参拝になったが、13:30頃神社を離れ14:10頃福野駅に着き、14:20発の列車で高岡に向かった。


気多神社
 気多神社の所在地は、富山県高岡市伏木一宮1−10−1で、氷見線越中国分駅の南西約800mのところにある。式内社(名神大社または小社)で、旧社格は県社である。天平4年(734年)、能登国気多大社から分霊されたとあり、主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、奴奈加波比売命 (ぬなかわひめのみこと)である。
 Wikipediaによると、「所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。」とあった。
 2012年6月11日、上記の高瀬神社参拝後、高岡に戻り高岡発15:00の氷見線の列車に乗り換え16分で越中国分に着いた。越中国分駅は、無人の小さな駅だった。駅から神社までの直線距離は約800mであるが、くねくね道のため1.5km程度は歩かなければならなかったが、近道をしようとして細い道を行ったら、かえって時間が掛かり、神社下まで行くのに20分も掛かった。神社下まで来ると左手に「とやまの名水 気多神社清泉」がありすぐ先に手水舎があったので手を清めた。名水は、生水であるから飲まないようにという注意書きがあった。左折する道路の向いに国の重要文化財になっている本殿の説明看板がありその右側に気多神社の石柱が立っていた。そこから先は、石段になっており石段を登り切ったところに鳥居が見えた。


越中国分駅

参道 案内板は[左手が社務所]

左は、手水舎、中央に石柱と神社への石段
 

重要文化財本殿の説明板
(写真をクリックすると大きな写真が出ます。)

 石段を登り鳥居をくぐるとコンクリートの参道が続き、やがて右手に神馬があり左方向の石段の上に社殿が見えた。石段を登ると目の前が拝殿である。拝殿で参拝した後、右に回り本殿を拝見した。


鳥居と参道

石段の先に社殿が見える

拝殿

本殿(国重文)

大伴神社

拝殿と本殿

 拝殿に向かって左側に大伴家持を祀った大伴神社があった。石柱には、「天平の代、満五年に亘り越中国守として聖武天皇の御信託に応え国務に恪勤してよく田地開墾の實を挙げられる ‥‥‥」と記してあった。
 参拝後は、早く高岡に戻り次の射水神社に参拝したいところであったが、帰りの列車は、越中国分発17:00のため時間消化に苦労した。


射水神社
 射水神社の所在地は、富山県高岡市古城1−1で、高岡駅の北東約1kmにある高岡城跡の本丸跡にある。式内社(名神大社または小社)で、旧社格は国幣中社、祭神は、瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)(二上神)である。この神社は、現在地の北方約5kmところにある二上山の麓にあったものを明治8年9月16日、高岡城本丸跡の現在地に遷座されている。
 この神社には、2007年5月5日、高岡城跡見学の時、参拝しているので再訪問である。
 2012年6月11日、氷見線越中国分駅近くの気多神社を参拝した後、高岡に戻り徒歩で高岡城跡へ向かった。高岡城跡には、立派な水堀が残っており荘厳な感じを受ける。大手口から鍛冶丸を経て二の丸に入り、二の丸から本丸への橋が射水神社の参道になっている。参道を進んで行くと神社入口に鳥居があり、鳥居の左手前に社号標と由緒看板があった。由緒看板には、下記が記してあった。

『由緒
 祭 神 二上神
 北西五粁の二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し詳らかでないが天武天皇三年(皇紀一三三五、西紀六七五)正月奉幣に興られた傳承を以て鎮座の年と定めた次いで慶雲三年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀十一年従五位下の神階に叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた
 やがて戦国の世?く兵火に罹り頽廃したが前田利家利長の保護により輪奐を改め明治四年国幣中社に列した
 維新の神仏分離規制に従い且つ広く県民に崇敬に迎えられ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた 』


高岡城跡の水堀

参道

社号標と由緒看板

鳥居 遠方は拝殿

拝殿

拝殿を斜めから

 拝殿で参拝した後、本殿を拝見しようとしたが、木々が茂っていて見えなかったので諦めた。この神社の建物は、明治になって神国日本の神社として建立されたようでどうも歴史の重みを感じなかった。この後は、北陸本線で富山へ行きホテルルートインに宿泊した。次の日は、雄山神社参拝である。


雄山神社
 雄山神社(おやまじんじゃ)は、峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社で成っている。
 霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀っている。

雄山神社峰本社
 峰本社の所在地は、富山県中新川郡立山町立山峰1番地であるが、立山の雄山(3003m)の山頂である。立山の一番高いところは、大汝山で標高は3015mである。
雄山は高山であるため、当然ながら今回は参拝していない。

雄山神社前立社壇
 雄山神社前立社壇の所在地は、富山県中新川郡立山町岩峅寺1番地で、富山地方鉄道の岩峅寺(いわくらじ)駅の西方約500mのところである。岩峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味があるという。
 2012年6月12日、富山地方鉄道上滝線で富山発7:27で岩峅寺に向かった。岩峅寺に7:59に着き、神社へ向かって歩き出した。住宅街を進んで行くと鳥居が見えてきた。こちらの参道は裏参道である。神社のホームページによると裏側の神門は、東神門となっていたので、鳥居は東鳥居と言っていいだろう。東神門と書いてあったが、地図で見ると南東方向である。鳥居をくぐって行くと東神門に着いた。左手に手水舎があったので、手を清めてから東神門をくぐると遠方に表神門が見えた。右手に拝殿、その後ろに本殿が見えた。拝殿前に進み参拝した。


岩峅寺駅

東鳥居

東神門 左手に手水舎

東神門を入ると遠方に表神門

右手に拝殿と本殿

拝殿

 参拝が終わると表側を拝見するために表参道へ出た。表参道から表鳥居を見ると、右手遠方にに上滝水力発電所が見えた。表鳥居をくぐると左手に重要文化財である本殿の説明看板が立っていた。これによると「 社伝によると、建久二年(一一九一年)に源頼朝が再建し、明応元年(一四九二年)足利義稙によって修復されたとしている。」となっていた。
 更に進んで行くと石段があり、上がったところの右手に社号標があり左手に由緒書き看板があった。由緒は、カタカナ書きで難しい漢字が使われていた。進んで行いくと表神門が見え右手手前に手水舎があった。表神門から見ると正面に東神門、左手に拝殿が見えた。表神門を入って行くと左手に末社八幡宮、摂社刀尾社、末社稲荷社と3社並んでいた。それを通り越すと本殿を横から拝見することができた。


表鳥居 右手遠方に水力発電所
  

由緒看板
(写真をクリックすると由緒書きを表示します。) 

表神門 右手に手水舎

表神門から見る

摂社、末社

表神門側から本殿を見る

 参拝が終わるともと来た道を帰り岩峅寺駅から立山行の電車に乗り中宮祈願殿参拝に向かった。

雄山神社中宮祈願殿
 この神社の所在地は、富山県中新川郡立山町芦峅寺2番地で、北陸地方鉄道千垣駅東方約2kmのところにある。この中宮祈願殿がどういうものかよくわからないので、Wikipediaを見たところ「中宮祈願殿は、かつて中宮寺(芦峅寺)と呼ばれた神仏習合の施設。芦峅寺における立山信仰の拠点である。境内奥に西本殿(立山大宮)と東本殿(立山若宮)がある。「祈願殿」は江戸時代までは大講堂と呼ばれていた建物で、雄山大神を始めとする立山山中36社の神が合祀されている。」となっていた。
 2012年6月12日、雄山神社前立社壇を参拝した後、北陸地方鉄道の電車で千垣(ちがき)に向かった。千垣で下車すると県道6号線を東に約2kmの歩行である。神社に近づいてくると右手に残雪の残る山並みが見えてきた。何という山か全く見当がつかなかったが、立山に近づいているので、立山は見えなくて立山の手前の山だろうと想定した。


千垣駅

神社への道 県道6号

神社手前約1kmの道路から見えた山並み

 歩くこと25分で神社入口に着いた。右手に由緒書きがあり西本殿の立山大宮には伊邪那岐命が祀られており、東本殿の立山若宮には天手力雄命が祀られていると記してあった。
 鳥居をくぐると右手に手水舎があり手を清めて進んで行くと奥の方に立山若宮がありお参りした。少し左の方に祈願殿があり、祈願殿には、「日本三霊山立山大権現祈願殿」という看板が掛けてあった。ここで参拝した後、更に左奥の立山大宮にお参りした。


神社入口
  

由緒書
(写真をクリックすると由緒書きを表示します。) 

祈願殿

立山大宮

立山若宮

 参拝後は、近くの立山博物館を見学した後、もと来た道を引き返した。このあとは、北陸本線の普通列車に乗車し糸魚川の天津神社参拝に向かった。(2012/12/3)