越後国一宮 天津神社、居多神社、弥彦神社


 越後国一宮は、Wikipediaによると弥彦神社(やひこじんじゃ)、居多神社(こたじんじゃ)、天津神社(あまつじんじゃ)の3社である。このうち弥彦神社と居多神社は、一宮会に入っているが、天津神社は入っていない。


天津神社
 天津神社の所在地は、 新潟県糸魚川市一の宮1−3−34で、糸魚川駅南方約500mのところにある。
 この神社は、式内社論社で、祭神は、天津彦々火瓊々杵尊 (あまつひこひこほににぎのみこと)、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)、太玉命 (ふとだまのみこと)である。
 Wikibediaによると、『延喜式神名帳』には式内社として「越後国頸城郡 大神社(おほむはじんじゃ)」が記載されているが、その論社に比定されている。また、境内社の奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)も式内社論社であるとなっている。
 2012年6月12日、越中の雄山神社を参拝した後、北陸本線の普通列車に乗車し13:26に糸魚川に着いた。地図を見ると駅からは、東側の道路を行けば、近いだろうと思って歩き出したが、地図にある道がなくなっていたため東側から行けなく、地図に矢印で示したように西側に行ってから細い参道を通って神社へ行くことになった。細い参道を進むと右手に神社へ入る橋がありその先に鳥居、手水舎、由緒板が続いていた。


糸魚川駅

神社入口

 由緒板には、「由緒」と書いてなく「説明」と書いてあり日付は、昭和二十年七月となっていた。下に紹介する。

『 説 明
神社名 天津神社 一ノ宮と俗稱す
祭 神 瓊々杵尊 天兒屋根命 天太玉命
    境内別に奴奈川神社あり奴奈川媛命 八千矛命を祀る
鎮座地 新潟県西頸城郡糸魚川町大字一ノ宮

人皇第十二代景行天皇の御宇に創設に係り人皇第三十六代孝徳天皇の勅願所たりと云ひ傳へ延喜式内社の一ならむと推稱せらる
社殿はもと山崎の地に在りしを山崩れのため此の地に移し造営したりと傳ふ
此の地方は往昔沼川郷と称し奴奈川媛命の棲みましし処八千矛命が遠く海を渡りて此の地に上陸せられ媛と契らせ給へりと云う史実と御二方の間に生まれましし建御名方命が姫川の渓谷を辿りて信濃路へ進ませられ遠近を開拓統治し給へりと云ふ傳説とに徴すれば此の地は神代に於て国津神の威武を内外に発揚し給へる重要なる基地たりしを想察するに足る
ただ神社名が天津神社と呼ばれ境内別に奴奈川神社の存するは後世天神地祇其の處を換へたるに依るならむか
(中略)
神社は幕政当時朱印一百石を寄進せらる
大正七年郷社に列せられ昭和十八年三月県社に列せらる

昭和二十年七月
                             天津神社社務所 』

 「一ノ宮と俗稱す」と書いてあったが、越後国一宮とは、どこにも書いてなかった。
 由緒書き看板を過ぎて進んでいくと集会所のような建物がありその前を左折すると赤い建物が見えた。この建物には、「衣紋所」という石碑が立っていた。更に左方を見ると茅葺の拝殿が見えた。拝殿の奥には、向かって左に奴奈川神社本殿、拝殿の真後ろに天津神社の本殿があった。また、拝殿の右側には、末社の子聖社(ねのひじりしゃ)があった。拝殿で参拝した後、境内をゆっくり拝見した。


遠方から拝殿

衣紋所

拝殿

奴奈川神社本殿

本殿

末社子聖社

南側の入口

 参拝後は、西側の道路を通って糸魚川駅に戻った。糸魚川駅で北陸本線の普通列車に乗り直江津へ向かった。


居多神社(こたじんじゃ)
 この神社の所在地は、新潟県上越市五智6−1−11で、直江津駅の西南西約2kmのところにある。式内社で、旧社格は県社、『延喜式神名帳』では「居多」を「けた」と読ませており、北陸地方に分布する「気多(けた)神社」と同じ系統の神社とされている。祭神は、大己貴命 (おおなむちのみこと)である。
 2012年6月12日、糸魚川の天津神社を参拝した後、北陸本線の普通列車に乗車し15:22に直江津に着いた。この日の宿泊地燕三条に明るいうちに着くために時間を節約する必要があり、行きはタクシーを利用し帰りは歩行することにした。
 道路のすぐ横が神社であった。右手に社標碑、左手に由緒書き看板、正面に鳥居があり遠方に社殿が見えた。鳥居をくぐると正面に社殿があったが、建物は新しかった。帰ってから調べてみると平成20年6月の落慶であった。


神社入口

由緒書き看板

  左の写真をクリックすると
  由緒を読むことが出来ます。

社殿正面

本殿

社殿全景

摂社雁田神社

 参拝が終わると、神社の前の道路を北に向かって進み、県道468を辿って直江津駅に戻った。直江津駅で16:20の普通電車に乗車し、柏崎、吉田経由で燕三条へ向かった。燕三条には19時前に着き、燕三条のアパホテルに入った。


弥彦神社
 弥彦神社の所在地は、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898で、弥彦駅の北北西約1kmのところにある。
 祭神は、天香山命 (あめのかごやまのみこと)である。
 Wikipediaの「概要」によると、
 『越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。
 『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。』とある。
 2012年6月13日朝、燕三条で弥彦線に乗車し、弥彦駅へ向かった。弥彦駅に着く前に車窓から赤い大鳥居が見えた。この鳥居は、30.16mあり、以前は日本一の高さであったが、現在は、第3位のようである。
 8:14弥彦駅に着いた。駅舎は、柱が朱色に塗られていたが、それほど派手な感じは受けなかった。朝早かったためか人通りはなく閑散としていた。50m程度行くと道は左右に分かれおり、右方の道幅の狭い参宮通りを進んだ。
 

車窓から見た大鳥居


弥彦駅舎

駅前通り


分岐、右側が参宮通り

 参宮通りを進んで行くと神社の西側の通り(社家通り)に出たので、左折して北上すると一の鳥居に着いた。一の鳥居は、朱色に塗られた立派な鳥居であった。左側には、案内板がありそれには、次のように記されていた。
 『御祭神は天照大御神の御曾孫で天孫降臨に供奉して降り紀州熊野に住み神武天皇御東征の時霊剣を奉りて大功をたて、後北辺鎮護国土開発の勅命を奉じて越後に降られ、住民を導き、農耕漁業を始め諸産業を教え、地方文化産業の基を開かれた大祖神である。
 されば夙く衆人その徳を仰いでこの地に社を創建し崇敬の誠を捧げた古社であり、遠く万葉集には彌彦の神をたたえ、平安期の初め神験の顕著により名神の列に加わり神階を授けられ、延喜式に名神大社と記す、鎌倉幕府三千貫の社領を寄せ、上杉謙信神助を祈り、徳川氏また五百石の朱印地を奉る。
 明治4年国幣中社に列し、皇室を始め衆庶の崇敬極めて篤く明治11年明治天皇が、昭和47年には天皇・皇后両陛下又昭和56年皇太子・同妃両殿下が御参拝になる。
 昭和二十二年宗教法人となり神社本庁に属する。』

 一の鳥居をくぐると石畳の参道が奥へ続いていた。目の前に石橋があり、そこから左手をみると御神橋の「玉ノ橋」が見えた。参道をしばらく行くと宝物殿の入口に来た。左手に手水舎がありその先に二の鳥居があり遠方に随身門が見えた。手水舎で、手を清めて二の鳥居をくぐって行くと右手に神馬舎があった。
 

一の鳥居


参道

御神橋「玉ノ橋」


手水舎

二の鳥居 遠方に随身門が見える


神馬舎

 神馬舎を過ぎて行くと随神門に近づいてきた。右手に摂社、末社を集めた境内があった。
 随神門をくぐると立派な拝殿があり、お参りした。


随神門


拝殿 遠方の山の頂上にロープウエイの駅が見える

 拝殿の裏の本殿を拝観しようとしたが、見える場所を見つけることができなく、拝殿の屋根越しに本殿の屋根を見るに留まった。
 参拝が終わり随身門を出ると、左手に摂社、末社をまとめてある境内へ行き参拝した。
 

一番奥の屋根が本殿の屋根


摂社・末社への入口

末社群(7社)


重文の摂社 十柱神社

 弥彦神社は、境内は広大で、鳥居や建造物も立派であった。これぞ一宮という観を受けたが、論社が2社もあり歴史の不思議さを感じた。
 このあとは、奥宮参拝である。


弥彦神社奥宮
 弥彦神社の参拝が終わると、一の鳥居を出て右折しロープウエイのりばへ向かった。のりばまでは700m、無料のシャトルバスがあり、すぐに発車するというので乗り込んだが、歩くべきと考え降りて歩き出した。道は、万葉の道と称してところどころに万葉集に出てくる草花が植わっていた。まもなくロープウエイのりばに着いたので、ゴンドラに乗車し頂上へ向かったが、天気がよく越後平野が一望に見渡せた。
 

ロープウエイのりばへの道


万葉の道の草花

ロープウエイ山麓駅


山麓駅から山頂駅を望む


ゴンドラから越後平野を望む

 山頂駅に着くと、そこには、展望食堂やパノラマタワーがあった。東の日本海を望むと遠くに佐渡島がぼんやりと見えた。展望食堂の屋上から北側をみると多宝山が見え、南側の弥彦山には、テレビ塔が林立していた。


頂上食堂とパノラマタワー


日本海 遠方に佐渡島

多宝山


弥彦山方面 テレビ塔が林立

 奥宮は、南方の弥彦山の頂上にあるので、そちらに向かって歩き出した。数基のテレビ塔を通過した後、最後のテレビ塔の先に奥宮の鳥居があった。鳥居から少し登った頂上に奥宮が鎮座していた。お参りした後、しばらく周辺を見渡した。天気がよかったので、日本海の海岸、越後平野がよく見えた。


奥宮への鳥居


奥宮

 奥宮から山頂駅に戻ったが、時間があったので、多宝山の方へ行ってみたが、途中の高頭仁兵衛寿像まで行って引き返した。
 この日は、天気がよく清々しい参拝であった。
 
 このページは、弥彦神社の前までは、2012/12/4に完成していたが、掲載意欲を消失し放置していた。2014/7/11、思い直して取組み完成した。