18.大東亜戦争は負けない方法があったという(R02/12/9)

 昨日(12/8)は、大東亜戦争開戦記念日である。当初は、大いに戦果を挙げたが、徐々に敗退へ進んで行った。なぜ、負ける戦争をしたのだろうか。

 今年の1月4日にYouTubeでチャンネル桜の新春特別対談「林千勝氏に聞く」を視聴して驚いた。
 陸軍は、「秋丸機関」を設立し科学的な経済抗戦力研究に基づいて、合理的な戦争戦略を準備していたのである。それは、アメリカと全面戦争をしたら絶対に負けるので、南進し石油を確保しそして西進することであった。真珠湾攻撃など全く考えていなかったのである。真珠湾攻撃など行わないで、南進ー西進していれば、負ける戦争にはならなかっただろうと。
 林千勝氏は、「日米開戦陸軍の勝算」、「近衛文麿 野望と挫折」、「日米戦争を策謀したのは誰だ」という3冊の著書を出版していることを知ったので、すぐにこの三冊を購入して読んだ。

 開戦前の昭和16年11月15日に大本営政府連絡会議において、「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」が決定された。

大本営(Wikipedia抜粋)
日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令=大陸命、大本営海軍部命令=大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。本来「本営」とは総司令官が控える場所(中世の本陣と同義)で、これを更に仰々しい名にしたもの。
大本営政府連絡会議(Wikipedia抜粋)
大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合によっては次長も)が出席した。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事として出席した。

 「腹案」は、「方針」と「要領」に分かれており、「要領」の冒頭「一、」は、下記となっている。

帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及太平洋に於ける米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域並主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う。およそあらゆる手段を尽して適時米海軍主力を誘致して之を撃破するに努む。

 これによると、米海軍に対しては、誘い出して撃破するという戦法で、戦力は、根拠地から戦場への距離の二条に反比例するとの原則に沿ったものであり合理的である。真珠湾へ出かけて行って攻撃するという考えは全くない。
 それでは、何故、「腹案」にない真珠湾攻撃を行ったのだろうか。
 詳しくは、「近衛文麿 野望と挫折」の226頁「亡国の真珠湾攻撃」を読んでいただきたいが、簡単に記すと、海軍軍令部総長だった永野修身は、東京裁判の検察尋問に対して、腹案は理にかなっているので賛成だったけれども、山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃を主張しており、やらせえてもらえないなら部下と共に連合艦隊司令長官を辞任するというので、真珠湾攻撃を許可したという。林千勝氏は、米内光政ー長野修身ラインで決めたと説明している。
 「腹案」を破った極悪人は、米内光政、長野修身、山本五十六であるが、開戦時の首相は、東條英樹であり、陸軍大臣も兼務していた。「秋丸機関」は、陸軍が設立し、これに基ずき「腹案」が出来ており、「大本営政府連絡会議」で承認されている。なのになぜ、海軍の真珠湾攻撃に反対し阻止できなかったのだろうか。理解に苦しむ。この辺を林千勝氏に究明してもらいたいが、資料の入手が困難で無理かもしれない。

 東條英樹はどのような人かよく知らない。でも、今までに得た情報を以下に示す。
 開戦前の7、8月に総力戦研究所(内閣総理大臣直轄の研究所)に於いて「日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習」が行われた。結論は、「日本必敗」であった。これに対して参列者の東條陸相は、下記(Wikipedia抜粋)を述べている。

諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。(表記は現代式に改め)

 「日本必敗」という結論に対して、参列者としては、このように言わざるを得ないことはわかる。だが、東條陸相は、米国と戦争しても負けるとは、思っていなかったのではないだろうか。

 早瀬利之氏の著書「石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人」に興味ある記述があった。
 昭和17年、ガダルカナで陸軍二個師団が全滅した後、東條首相は、今後の戦い方について石原の意見を聞くために会談している。東條と石原は、犬猿の仲だったが、東條は、やむにやまれず会談を申し入れたようだ。

 石原は、そのとき初めて、海軍はミッドウェーで空母4隻を失い敗北したことを知る。ガダルカナ島の戦況も知らされる。そこで石原は、
「ただちに、全員引き揚げて、和睦を交渉することだ。戦さは最後まで分からないけど、戦域を縮小することだ」
と言ったあと、
「戦争は、あなたでは勝てない。あなたには戦争はできないことは、最初から分かりきったことだった。このまま行けば日本は亡び、満州も台湾も北方も何もかも失ってしまいますぞ。即刻、総理と陸軍大臣を辞めることです。それが早道です。――それから、憲兵を使って私を見張るのをやめてください。」
 そう言って、会談は、物別れになった。

 と記されている。石原は、東條を全く評価していない。東條が本当に聡明な人ならば、戦争がどうにもならなくなってから意見を聞くのではなく、開戦前に意見を聞いていただろう。

 東條は、日本を背負って立つ人間ではなかったと言える。以上のことから上に立つ人は、如何に重要かがわかる。トップが悪いと国民は、どんどん不幸になって行く。
 現在の日本は、20年以上GDPが増えていなくどんどん劣化し後進国化している。これは、上に立つ人が悪いからである。

 ところで、海上自衛隊では、山本五十六は、英雄扱いになっているという。とんでもないことである。