青山繁晴著「きみの大逆転」抜粋

(ハルノートについての記載部分)

P149〜156
 このコーナーの展示に関連して最後に短く付け加えておきたいのは、ハル国務長官についてです。
 学校で第二次世界大戦の歴史をかろうじて、ここあたりまでは教わった人も居らっしゃるのではないですか?
 当時アメリカ国務長官だったコーデル・ハルさんという人がハル・ノート――ノートだから正式文書でもなんでもないメモ、覚え書きです――ハル国務長官のメモが日本に渡って、そのなかに日本には到底受け入れられない条件がたくさんあったから戦争になりましたと教わりました。
 これについてのぼくのささやかな持論は歴史学者とは違っています。
 ハルさんは、ただの国務長官です。そして実際の交渉相手、カウンターパートは日本の駐米大使に過ぎませんでした。
 そんなふたりのやり取りで、日米戦争という大惨禍を日本、アメリカ双方に招くに決まっていることを決めるのですか?
 こんなものは「ああ、そうですか」と言ってスルーすればよかったのです。
 ルーズヴェルト大統領が天皇陛下に向かってハル・ノートに書かれたようなことを仰ったなら話はまるで別ですが、たかが国務長官がメモで言ったことなんて「ああ、そうですか。色々、難しいことも確かにありますねえ」とヘラヘラしていれば、日米開戦までいく必要はなかったと長年、考えています。
 生真面目というか、なんでも相手の言うことをまともに受け取るというか、ただの国務長官が現場の交渉術として高飛車に言っただけで、まるで大統領が天皇陛下に何か突きつけたように誤認した……ぼくはそれがハル・ノートにまつわる真実だと考えています。
 こういうことをシンポジウムなどで言うと、歴史学者からは「いや、そんなはずはない。ハル・ノートは決定的に重要だった」と、論外という反応です。実はそれも歴史学者の役割としては良く分かります。
 もちろんぼくの考えは、決めつけではなく問題提起ですし、歴史は本来「たら、れば」すなわち「何々だったら、あれこれしていれば」という仮想はないものです。
 ただ、政治記者として日本、アメリカをはじめ政治の首脳陣と直接、接し、記者を辞めたあとも接し続けてきた実感から来ているのです。合州国国務長官は、エライひとにみえても、ただの国務長官です。
 この場であまりの長話も、ほかの観覧者のかたがたを考えれば、いけませんが、すこしだけ補足しておきますと……ハル・ノートは、真珠湾攻撃の前月、西歴で言えば一九四一年、昭和一六年の一一月二七日(米国東部時間二六日)、だからパールハーバーの二週間前ですね、アメリカから日本に示された外交文書です。ハル・ノートという名前は実際には、戦後の東京裁判あたりから使われ出したようです。アメリカでは、意外に一般用語ではなくて、単に「一九四一年一一月二六日付アメリカ側提案」と呼ばれることが多いです。
 この辺も、ハル国務長官をアメリカ代表だと捉えすぎた日本外交の感覚のずれ、というか、外交に必要不可欠な一種の狡さ、緩さ、柔軟であること、しなやかさが欠けていた、今も欠けている。その証拠のひとつという感があります。
 正式には、出してきた側の原文ではOutline of Proposed Basis for Agreement Between the united States and Japan「日米間の協定へ基礎作りとなる提案の概要」です。
 これが最後通牒ですか?
 しかも、中身の冒頭にはStrictly Confidential, Tentative and Without Commitmentすなわち「仮のもであり法的拘束力は無い」と明記してあります。
 だからこそ、ハル・ノートという通称にもなっているわけです。
 こんなものに昂奮したり打ちのめされたり、戦争を起こさせないのが本来任務である外交官たちも「ああ、もう駄目だ。戦争だ」と思い込んで、破滅的敗戦に至る日米開戦になるなんて、正直、頭がクラクラする思いです。
 さらにはこの半年ほど前の一九四一年四月、ハル国務長官は野村吉三郎駐米大使と会談したとき、四原則を明示しています。
 それは「あらゆる国家の領土と主権を尊重する」「他国の内政への不干渉を原則とする」「貿易の機会均等を含めて平等を原則とする」「平和的手段によるケースを別として太平洋の現状を維持する」、この四つです。  充分に相互譲歩の余地がある原則ですし、野村大使が特に四番目の原則についてハル長官に「満州国は含むのか」と開くと、「すでに建国されている満州国は含まない。あくまで将来の問題についての原則だ」と答えた史実があります。
 日露戦争の勝利に基づき日本が影響力を行使して建国した満州国の、何と事実上の承認ではないですか。
 ところが、あろうことか、野村大使はこの四原則を本国の日本政府に知らせなかったのです。野村さんはあとで「この原則の下では話が進まなくなるから押さえました」と弁解というか、むしろ正しい判断だったと自己弁護するような公電を本国に打っています。
 こうやって話すと、多くの歴史学者とは別に「そうか、ハル・ノートをあえて無視する手もあったかな」と考えてくれる人でも、「しかし結局は開戦でしょ。開戦を止める手立てはありましたか」という次の疑問を持つでしょうね。
 ぽくは、それがあったと考えているのです。
 すなわち国務長官と駐米大使のレベルなどでは全くなくて、首脳会談です。ふつうに考えればアメリカの大統領と日本の首相ですね。事実、ルーズヴェルト大統領と近衛文彦首相との会談が実現へ向けて交渉になったのですが、アメリカ政府内部に近衛首相は優柔不断だから駄目だと反対論があって、実現しませんでした。実はぼくも、近衛さんでは首脳会談をやっても日本がどうしたいのか良く分からないまま合意に達せず、つまり決裂となって戦争をむしろ促進しただろうと考えています。
 しかし逆にここに、日米の最後の救いが隠されていたのです。当時の日本は総理が駄目なら、明治憲法下の主権者としての天皇陛下がいらっしゃいます。その陛下の御心は、開戦反対です。
 そしてアメリカ東部時間で一九四一年一ニ月六日の土曜午後(日本時間七日日曜夜)に、ルーズヴェルト大統領は昭和天皇への親書を電報で送りました。
 遅すぎましたね。例によって外務省の動きが鈍かったこともあって、天皇陛下がご覧になったのは真珠湾攻撃のもう半時間ほど前でした。
 こんな場所で長話をしたのは、この失敗の体質が敗戦後も何ら変わることなく続いているからです。西歴二〇〇二年の日朝首脳会談のとき、外務省の田中均アジア大洋州局長(当時)が「拉致被害者は帰国しない。一時的に帰国するだけ。それも数人だけ。あとの拉致被害者は、北朝鮮が死亡したとする人については日本もそう受け止める」という無残な合意を勝手に北朝鮮側と交わしていました。それが当時の小泉総理も縛り、解決を非常に難しくした。再登板後の安倍政権が、外務省の言うことを開かない珍しい政権なのは、その現場に安倍さんも官房副長官として参加していたからです。
 ぼくは外務官僚の悪口を言ったり、外務省のせいにしようとしているのでは全くなく、逆です。わたしたちはぼく自身も含めて、敗戦後の七〇年ものあいだ、いったい何をしていたのでしょうか。
 肝心な「なぜ負けたのか。負ける戦争をしたのか」ということを考えてこなかったのは、侵略であったのかなかったのか、その不毛の議論ばかりしていたからです。第二次世界大戦の前は帝国主義の時代ですよ。西洋民主主義の国家がこぞってアジア諸国を植民地にしていた。なぜ日本だけを別基準、戦後の基準で裁くのですか。
 こうして、敗戦に繋がった原因がほとんど温存されているから、拉致事件をさらなる悲劇にしているのです。
 さ、次の展示に行きましょう。疲れていませんか? 大丈夫ですか?