河内国一宮 枚岡神社、片埜神社


 河内国一宮は、Wikipedia によると2社あり、東大阪市の枚岡神社(ひらおかじんじゃ)と枚方市の片埜神社(かたのじんじゃ)である。河内国は、南北に縦長で枚方市と東大阪市の間には、交野市、寝屋川市、四条畷市、大東市があり、枚岡神社から片埜神社への移動は簡単ではない。時間の関係でそれぞれ別な日に参拝することになった。



 枚岡神社
 2012年2月15日、大鳥大社を参拝した後、阪和線で天王寺へ、環状線内回りで鶴橋へ行き、鶴橋から近鉄奈良線で枚岡へ行った。枚岡に着いたのは、9時40分頃であった。
 枚岡神社は、枚岡駅の東側の坂上に鎮座していた。官幣大社であったため参道は、立派である。


参道入り口

 参道の左側に由緒記載の看板があった。この記述を下に転記する。

 『当社は紀元前663年に、神武天皇の詔によって、現在地の東方、霊山と崇める神津嶽に、天児屋根命、比売御神の両神がお祀りされ、白雉元年(650)に現在地に神殿を造営し、山上より遷祀されたわが国有数の古社です。
 奈良の春日大社創建に際して、両神が分祀されたことから、春日の元宮とも称えられ、その後、経津主命、武甕槌命が合祀され、四棟並列の美しい枚岡造の御殿が完成いたしました。
 「延喜式」では、名神大社として祈年・月次・相嘗・新嘗の各祭に官幣を奉られ、殊に春冬二回、勅使を遣わされる等、朝廷より最高の優遇を受け、先の大戦まで官幣大社に列していました。
 主祭神の天児屋根命は、祭祀を行なって天の岩戸開きをされたことから、神事を司る神さまとして称えられ、除災招福・開運厄除けのほか、幅広い信仰を集めており、社叢は全国「かおり風景百選」に認定されております。
 太古より受け継がれて来たこの聖域には、神気が満ちみちています。この大いなる神気をいただかれ、皆様方の内なる気が蘇り、元気で幸せでありますよう願っております。』とあり、御祭神は、下記である。
  天児屋根命
  比売御神
  経津主命
  武甕槌命

 鳥居を通って参道を昇って行くと石段の上の拝殿が見えてきた。石段を登って拝殿で参拝した。参拝後、本殿を拝見しようとしたが、全体を見ることはできなかった。


拝殿を見上げる 


拝殿 

本殿の門


本殿(3棟が確認できる)

 上の本殿の写真は、春日造の構造を確認することはできるが、3棟しか見えない。下の写真では、かろうじて4棟が確認できる。


4棟からなる本殿

 本殿は、右から2段、1段、3段、4段となっており、祭神は、右から比売御神、天児屋根命、経津主命、武甕槌命である。

 枚岡神社を参拝した後は、摂社の若宮社、末社の天神地祇社を参拝した。


摂社 若宮社


末社 天神地祇社

 片埜神社
 2012年2月19日朝、宿泊した江坂のスーパーホテルを発ち、淀屋橋で京阪電車に乗り枚方市の牧野駅へ、8時半頃、牧野駅に着いた。片埜神社まで1kmもないが、地図を見て近道をしようと思って歩き出したが、途中でわからなくなった。先方から歩いて来た初老の男性に「かたの神社はどこですか。」と聞いたところ、詳しく教えてくれた。「片埜」という字も「交野」という字も初めて見る人は正しく読めないが、やはり地元であり「かたの神社」を即座に理解してくれた。地元の人は、「かたの」と音で覚えているのだろうか、それとも「片埜」と漢字も頭に入っているだろうかといろいろ考えながら神社へ向かった。
 8時40分頃、片埜神社の東門に着いた。東門から入ると鮮やかな朱に塗られた本殿が目に留まった。


本殿(国重文)

 近くに「片埜神社本殿」という看板に詳細が記載されていた。下に転記しておく。この本殿は、国の重要文化財に指定されている。

 『社伝では、古くから旧交野郡の鎮守神として崇敬され、延喜式に記載されている交野郡二座のうちの一座である。天正11年(1583) 豊臣秀吉が大阪城築城に際して、当社を鬼門鎮護の社として定めたという。
 現在の本殿は、棟札によると、慶長7年(1602) 豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に再建したものである。三間社流造、檜皮葺(ひわだぶき)で、細部にいたるまで桃山時代の華麗な様式をよく示しており、重要文化財に指定されている。特に四面を飾る蟇股(かえるまた)の彫刻に当時の特色を見ることができる。向拝中央は竹に虎、右は芙蓉にせきれい、左は椿にひよどり、本殿正面は中央・左右とも牡丹、背面は中央に椿、左にかきつばた、右に菊、東妻は太閤桐、西妻は栗と、絵画的で精巧な彫刻がそろっていて見栄えがある。
 平成21年から、檜皮葺屋根の葺替、彩色の塗替が行われ、朱漆塗に極彩色の壮麗な社殿がよみがえった。
 境内の南門は本殿再建後、引き続いて造営されたもので、大阪府の有形文化財に指定されている。』

 本殿には、11神祭られているが、主神は、下記4神であると。
  建速須佐之男大神
  櫛稲田姫命
  八島士奴美命
  菅原道眞公

 ホームページから由緒を抜粋すると、
 『第11代・垂仁天皇の御代、出雲の豪族・野見宿禰(土師・菅原氏の祖)が当麻蹴速との戦いに勝ち、河内一帯を賜わった。そして、当所、阪の地に、出雲の神様「建速須佐之男大神」を奉鎮し、土師氏の鎮守としたのが始まりである。
 欽明天皇の御代に勅により「片野神社」と号した。
 用明天皇の御代、聖徳太子のご懇情により社殿を造替えるとともに、別に一宇を建立して帝釈天、四天王等を祀らせ給うと伝えられている。この時を以て、当社は神仏混淆の形態をとった。
 平安時代の延長5年に延喜式内社に列せられ、その後も勅願所として宮中より、毎年仲春祈年祭に鍬靱各一口が供進された。』

 拝殿で参拝した後、境内内外を散策した。境内は、広くなく、正面入口は、南側の入口である。


正面入口


南門(大阪府有形文化財)

拝殿


拝殿と本殿を横から

東入口


「河州一の宮」の字が見える

 枚岡神社の看板には「河内国一之宮」と書いてあったが、片埜神社では、写真から判るように「河州一の宮」と書いてある。河内国は、別名河州と言われ同じであるが、同じ名前の一宮が二ヶ所にあるのを避けるため「河州一の宮」にしているのではないかと感じた。(2012/04/27)