伊勢国一宮 椿大神社、都波岐神社・奈加等神社


 伊勢国一宮を称している神社は二社あり、椿大神社(つばきおおかみやしろ)と都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)である。

椿大神社
 椿大神社の所在地は、 三重県鈴鹿市山本町字御旅1871で、亀山駅の北方約12.5kmのところにある。主祭神は、猿田彦大神である。
 椿大神社へ行くには、当初、近鉄四日市駅から三重交通のバスで行くことを考えたが、よく調べてみると、JR加佐登駅で鈴鹿市コミュニティバスの椿・平田線に乗れば、100円で行くことができることがわかった。三重交通だとバス代は、760円もかかる。
 2012年4月17日朝、宿泊した大津のスーパーホテルを発ち、7:43大津駅から琵琶湖線で草津へ、草津で草津線に乗り換えて柘植へ、柘植で関西本線に乗り換え9:37に亀山に着いた。関西本線は、便数が少ないため、亀山駅で約1時間待つことになったので、時間潰しに以前訪れたことのある亀山城跡へ再度行ってみることにした。亀山城の多門櫓が見えるところまで行ったところ、多門櫓は修理のため素屋根で覆われていたので、見学は諦めて引き返した。亀山を10:24に発ち、加佐登に10:32に着くと、すぐに鈴鹿市コミュニティバスに乗り11:14に椿大神社に着いた。
 バスから降りると、「伊勢一宮 椿大神社」という大きな石柱が立っており左手に車のお祓い所が見え、右手の鳥居をくぐると参道へ続いていた。鳥居のすぐ先に由緒の石碑があったが、読解困難なところがあるため転記はしないことにした。由緒を知りたいときは、神社のホームページかWikipediaを見ていただきたい。参道を進んで行くと拝殿が見えてきた。拝殿でお参りした後、本殿を拝見しようとしたが見えない。本殿は、拝殿より低いようで屋根さえも見えなかった。神社のホームページに本殿の写真は載っていないし、また他のいろいろな椿大神社のページを調べてみたが、本殿の写真は見当たらなかった。
 私は、出雲の生まれで、出雲ではあちこちの神社にお参りしたが、通常は拝殿で参拝した後、右手から反時計回りで本殿を拝見しながら一周するのが習わしで、本殿を拝見できないというようなことはなかった。こういう環境で育った私にとって本殿が拝見できないと物足りなさを感じる。


神社入口 左に車お祓い所

参道

拝殿が見えてきた

拝殿

拝殿を横から

椿岸神社(式内社)

 参道右側に式内社である椿岸神社があった。主祭神は、天之細女命で天の岩戸開きの神話の中で活躍された神様であるという。由緒は、ココを見ていただきたい。
 境内の拝観が終わった後、奥の宮がある入道ヶ岳見るために境内を離れた。下の写真を見ていただきたい。


入道ヶ岳

 参拝が終わると再び鈴鹿市コミュニティバスに乗って加佐登駅に戻り河原田駅の近くにある都波岐神社・奈加等神社へ向かった。

都波岐神社・奈加等神社
 都波岐神社・奈加等神社の所在地は、三重県鈴鹿市一ノ宮町1181で、河原田駅の南方1km余のところにある。祭神は、都波岐神社が猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)であり、奈加等神社は、天椹野命(あまのくののみこと)と中筒之男命(なかつつおのみこと)である。
 椿大神社を参拝した後、河原田駅から徒歩で神社へ向かった。歩行距離は、約1.6kmあり23分かかった。神社は、ごく普通の田舎の神社という感じであった。都波岐神社と奈加等神社の石柱は、それぞれ並立していた。拝殿は、鉄筋コンクリート造であった。拝殿で参拝後、右に回り本殿を拝見した。透かし塀越しに本殿を見たが、大きな本殿ではなかった。
 神社入口を入って左側に由緒書きの看板があった。以下に転記しておく。
 『当都波岐神社は、延喜式内の古社で伊勢国一之宮であります。創立は、雄略天皇二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが初まりであります。
 その際、天椹野命十五世の孫中跡直広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代であります。
 平安時代の初めには、弘法大師空海が本社を参籠し獅子頭二口を奉納したと伝えています。
 室町時代には、征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途本社に参拝し幣帛を供え社領を寄進したので、多くの武士が参詣したと伝えています。
 戦国時代には、織田信長が、伊勢平定の軍を進め近くに神戸・高岡の二城を攻略しました。その際、本社は兵火にかかり社殿が焼失しました。幸いにも御神宝の獅子頭などは他所へ遷し難を免れることができました。
 社殿は、江戸時代の初めの寛永年中に神戸城主一柳監物によって再建されました。また、肥後国の阿蘇神社及び常陸国の鹿島神宮と同じ鷹司家の執奏社として本社には大宮司職が置かれ、当地方において大きな勢力を維持しました。現在の本殿は、江戸時代末期の安政三年に造営されたものです。』


神社への道

神社入口

二社の石柱は並立していた

拝殿

本殿の屋根

本殿

 参拝が終わると宿泊先の松阪へ向かった。次の日は、志摩国一宮参拝である。(2012/06/15)