筑後国一宮 高良大社

 筑後国一宮は、高良大社(こうらたいしゃ)である。所在地は、福岡県久留米市御井町1番地で、久大本線久留米大学前駅の東南約2kmのところにある。祭神は、3座で、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、八幡大神(はちまんおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)である。

 高良大社への道程は、県道750号のみ利用すると4kmもあるが、途中から車の通れない参道を利用すると2.5km程度なので、歩くことにした。
 2012年5月15日、久留米駅で豚骨ラーメンの昼食を済ませた後、久大本線に乗車し久留米大学前に13:19に着いた。
 久留米大学駅は、洒落た駅舎であった。駅前から県道800号を5分程度南下すると県道750号の分岐に着いた。県道750号を進んで行くと九州自動車道の手前に石造りの鳥居があった。傍に説明板があり「この大鳥居は、高良大社の一の鳥居で高さ6.81m、柱間4.5mで花崗岩製の典型的な大形の明神鳥居です。現在の鳥居は、承応四年(一六五五)に久留米藩二代藩主有馬忠頼の寄進によって建立されたものです。」と記載されていた。

 九州自動車道の下をくぐって5分も行くと池があり池に橋が架かっていた。橋を渡ったところに説明板があり池の名前は、放生池、橋の名前は御手洗橋(みたらいばし)とあった。安政年間に久留米藩が整備し、享和三年に石橋ができたと。

 橋を渡った先には、道路の上方に高樹神社が鎮座していた。小さな神社であるが、説明板に、この神社は、国史現在社であると興味ある説明があった。
 「祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。
 古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
 この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に、「筑後国高樹神二従五位上ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石(こうごいし)を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。
 明治六年(一八七三)三月十四日郷社に列し
 大正十一年(一九二二)十一月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定された。」

 高樹神社を過ぎおよそ100m行くと車の通れない参道入口に着いた。二の鳥居がありその先は、石段が続いていた。


神籠石説明板

式内伊勢天照御祖神社

高良山本坊跡

モウソウキンメイチク林

 参道を登って行くと神籠石(こうごいし)の説明板があった。これによると、「高良大社が鎮座する高良山の山腹を広くとりめぐらした列石で、わが国の古代遺跡として、最も規模雄大なものである。
 列石は、一メートル内外の切石を一列に並べたもので、、高良大社社殿背後の尾根(海抜二五一メートル)を最高所とし、南側の尾根にそって下り、西裾の二つの谷を渡り、一三○○余個、延々一六○○メートルに及ぶ。」などと説明されていたが、具体的にどの石がそれに該当するかわからなかった。
 このような石列は、古代の山城の一種と考えるのが通説のようであるが、歴史上に登場しない山城としては、吉備の鬼ヶ城を思い出した。続いて朝鮮式山城である大宰府北の大野城、基山西方の基肄城が頭に浮かんだ。
 更に進んで行くと、小さな神社があった。この神社は、伊勢天照御祖神社で式内社であるという。これでも式内社かと驚いた。

 進んで行くと、石垣があり、高良山本因坊跡という説明板があった。これによると、『比叡山延暦寺の末寺ながら「鎮西九ヶ国の天台宗本山」「天下安全ノ御祈願所」と称せられた高良山本坊跡である。』と。明治二年新政府の神仏判然令によって廃寺となり、高良山御殿と称して久留米藩知事有馬頼咸公の住居とされたこともあったようである。

 石段の参道をどんどん進んで行くと右手に天然記念物の孟宗金明竹林(モウソウキンメイチク林)があった。昭和9年ころ突然に発生したもので、約300本あるという。
 孟宗金明竹は、外層の緑色の遺伝子が黄色に突然変異したもので、黄色の中に緑色の小さな幅の縦縞が、節と節の間に交互にあり、これは外層組織の芽溝部で内部の緑色が淡い黄色に組織を透かして見えるためだという。

 更に石段の参道をどんどん進んで行ったところ車道に出た。すぐ左側に社殿へ上がる入口があった。この入口は、裏門であった。後ほどこれより北側に正門があることを知った。正門の横の説明板に由緒書きがあったので下に示す。
「ご由緒
 高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一宮であります。御社殿御創建は履中天皇元年で西暦四○○年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も篤く国幣大社に列せられ、古くは式内明神大社として勅使の御参向を得て祭礼が行われた。勅諚によって御神幸も始められました。江戸末期までは、神仏習合の思考のもと天台の僧徒多数奉仕し、山内に二十六ヶ寺三百六十坊もあったということです。」

 最初、正門を知らなかったので、南側の裏門から登っていった。石段を登り切ってから左折して社殿へ向かって行くと、社殿全景を右手前から拝見することになった。立派な建造物であった。


社殿全景

 当社のホームページによると「現在のご社殿は、久留米藩有馬家三代藩主有馬頼利公の寄進によるもので、万治3年(1660)に本殿が、寛文元年(1661)に幣殿・拝殿が完成しました。
 江戸初期の権現造(ごんげんづくり)で、正面からみると、その幅約17m、高さ13m、奥行き32mで、神社建築としては、九州最大の大きさを誇ります。
 柿葺(こけらぶき)で、建立年次が明らかな社殿として、大変重要とされ、現在は国の重要文化財に指定されています。」と記載されている。
 神門から入り拝殿前で参拝した。

 その後、境内をあちこち拝観した。


摂社(奥)、末社(手前)

 社殿の右側に摂社と末社があった。摂社は、高良御子神社で祭神は、高良玉垂命の御子神九柱であり、末社は、真根子神社で祭神は、壱岐真根子命、武内宿祢の忠臣他となっていた。

 社殿の西側に社務所があり社務所の展望台からは、筑後平野を見渡すことができた。曇りのためはっきりした展望ではないが、下の写真を見ていただきたい。


筑後平野の展望

 高良大社の北西に吉見岳という山があり、そこに吉見嶽城跡があると表示があったので、参拝後は、来た道を帰らないで、城跡を見て帰ることにした。高良大社から約600mとの標識を見て進んでいった。城跡には、案内板がありそれによると概要は下記である。
 吉見嶽城は、天文二年(1533)、八尋式部が築城、本丸(東西54m、南北22m)、二の丸(東西36m、南北9m)、三の丸(東西29m、南北15m)、と二つの出丸から構成されている。この城は、標高約157mの展望のきく場所に位置し筑前から肥後、肥前から豊後にぬける軍事上の要地で、天正一五年(1587)には、豊臣秀吉が九州征伐の折りに陣を張ったと。
 案内板には、縄張り図も掲載されていたが、雑草が生い茂り縄張りはよくわからなかった。本丸跡には、琴平神社が鎮座していた。写真中の建物は、拝殿である。

 城址を見学した後は、高樹神社に向かって山を下りて行った。高樹神社からは、来た道を歩き、久留米大学前駅に着いたのは、15:31だった。この後は、熊本へ向かい、熊本駅近くにあるホテル五番街にチェックインした。(2012/07/13)

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