豊後国一宮は、西寒多神社(ささむたじんじゃ)と
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)の2社である。
西寒多神社
この神社の所在地は、大分県大分市寒田1644で、豊肥本線大分大学前駅の西南西約2kmのところにある。
主祭神は、西寒多大神(天照皇大御神)、月読尊、天忍穂耳尊であり、応神天皇、神功皇后、武内宿禰が配祀されている。
この神社へ行くには、当初、大分大学前駅から歩くことを考えたが、調べてみると大分駅からバスがあることがわかった。大分バスに電話で聞いたところ、大分駅前のトキハ前からふじが丘方面のバスに乗りふじが丘南で下車せよという。
2012年5月16日、豊肥本線の宮地駅前からバスに乗り12:40過ぎに大分駅に着いた。荷物を宿泊する東横インに預け、トキハ前バス停の場所を聞いた。トキハ前でバスに乗り約30分でふじが丘南に着いた。ふじが丘南のバス停は、地図上で何処に位置するのかわからないので、西寒多神社への行き方がよくわからない。そこで、一緒に降りたおばさんに聞いたところ、「私の家から行くとわかり易いです」と言ってついて来るよう言うので、ついて行き彼女の家の前で行き方を教えてもらった。歩いて行くと所々に道案内板があり数分も歩くと西寒多神社に着いた。神社前には、寒田川(そうだがわ)が流れており、そこには「万年橋」と呼ばれる弧線を描く石橋がかかっていた。この石橋は、1862年に完成し県指定有形文化財になっていると案内碑に記載されていた。
本殿の右側に校倉造りの神庫があった。この建造は、明治19年で新しいが市指定有形文化財になっていた。また、その横には、大分社という祠があり、祭神は、豊門別命となっており、「大分の地名の元となった古代の豪族大分の君を祀る」と記されていた。
参拝が終わると、再びバスに乗り大分駅に戻った。
柞原八幡宮
この神社の所在地は、大分県大分市大字八幡987で、日豊本線西大分駅の西南西約3kmのところにある。祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后である。
柞原は、「ゆすはら」の他に「いすはら」「ゆすばる」とも読むようである。大分交通の停留所検索では、「いすはら」でないと検索できなかった。
2012年5月17日、大分駅前発7:32の柞原八幡宮行のバスに乗車した。乗客は、20人程度で少なく、途中の乗客も少なかった。乗車約30分で終点の柞原八幡宮の入口に着いた。降りたのは、私を入れて二人だった。神社参りは、私一人だった。
神社の入口は、注連縄鳥居になっていた。左側に説明板があり由緒が記してあったので下に記す。
「当宮は 平安時代の天長四年(八二七)に宇佐神宮より御分霊を勧請し、承和三年(八三六)国司により社殿を造営。爾来、皇室も厚く尊崇せられた。
嘉承(一一〇八)には、勅使の参向があり、敷地の四至を定め税を免ぜられた。仁平三年(一一五三)には、鳥羽法皇が六十歳の御賀に御祈願を修せられ、神領を定められた。
元暦元年(一一八四)には、源 範頼が平氏の追討を祈願したのをはじめ、源 頼朝、領主(大友、竹中、日根野)、武家の尊崇も非常に厚く 近世には、社家二百余、坊舎三十を数えた。御本殿は嘉永三年(一八五〇)に再建された壮麗な八幡造り。参道途中に建つ南大門は、「日暮門」と称し、壁面には二十四孝等の彫刻が施され、門の横には樹齢三千年の天然記念物が大楠が聳えている。」
入口から石段が始まり、参道は長い石段が続いていた。赤い鳥居をくぐって登って行くと南大門に着いた。門標は、「由原八幡宮」となっていた。この門の壁面には、多数の彫刻が施されていた。門の左側には、天然記念物の大楠が聳えていた。
南大門を過ぎて登って行くと突き当たりになっており、左側は社務所、右側は朱に塗られた西門であった。
西門を入ると正面に申殿(もうしでん)があり、左手透かし塀の奥に八幡造りの本殿が見えた。右手は、申殿の右側に拝殿、楼門、西廻廊が見えた。西廻廊に入って進んで行き拝殿前で参拝した。拝所からは、拝殿・申殿の内部、本殿扉を拝観することが出来た。拝殿を過ぎて進んで行くと東門が見えてきて、左手に申殿と本殿がよく見えた。