近江国一宮 建部大社


 近江国一宮は、建部大社(たけべたいしゃ)である。所在地は、滋賀県大津市神領1丁目16−1で、東海道本線石山駅の南東約1.4kmのところにある。
 主祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、権殿神は、大己貴命(おおなむちのみこと)である。
 2012年6月7日、宿泊した大垣のスーパーホテルを発ち9時頃石山駅に着いた。建部大社まで1.6km程度であり徒歩でもよかったが、バスがあるのでバスを利用した。県道16号沿いの建部大社前のバス停で降車し少し歩くと一之鳥居のある大社入口に着いた。鳥居の手前には、説明板があり由緒が記してあったので、下に転記する。
「御由緒
 当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神、日本武尊は御年僅か16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において遂に崩御されたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられた(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の46年(約千八百六十余年前)、神勅により御妃 布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迂祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社である。
 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのである。
爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以である。(以下省略)」

 一之鳥居をくぐると長い参道になっていた。150m程度行くと左手に二之鳥居がありその先に神門が見えた。神門を抜けると正面に拝殿と神木の三本杉、左右の遠方には摂社が見えた。


県道16号の左に神社入口の一之鳥居

一之鳥居から参道を見る

参道の先左手に二之鳥居

神門

神門を抜けると正面に拝殿と神木の三本杉、左右の遠方には摂社が見えた。

拝殿を斜めから 奥に権殿、本殿

 拝殿で参拝後、奥の権殿、本殿を拝見した。権殿、本殿は、透かし塀の中にあり向かって右側が大己貴命を祀った権殿、左側が日本武尊を祀った本殿である。
 

左手から本殿を見る

右手から権殿を見る

透かし塀の間から本殿

透かし塀の間から権殿

 本殿の前に「幻の千円札」という説明板があり、昭和20年8月、日本で初めて作られた千円札の図柄に祭神の日本武尊と本殿が使用されているとあった。お札では、中門が中央にくっきりと見えているが、現在は、拝殿と本殿の間に雨よけの建物がありお札のようには見えない。


「幻の千円札」説明板
(画像をクリックすると大きな画面で見れます。)

中門
 

 境内には、左右に摂社があり、右側の摂社には、日本武尊の御妃、御子、家臣が祀られており、左側は、景行天皇、その皇妃、日本武尊の家臣などが祀られていた。他に末社として八柱神社、稲荷神社、大野神社があった。


左側摂社

右側摂社

八柱神社、右側に稲荷神社

大野神社、左側は稲荷神社

 参拝が終わると、時間に余裕があったので、バスに乗らないで歩くことにした。瀬田唐橋を渡りながら琵琶湖方面を見たり、県道104号沿いの街並みを眺めながら石山駅へ向かった。


瀬田唐橋から琵琶湖方面を見る
(2012/08/10)