阿波国一宮は、4社もある。中世以降の一宮は、大麻比古神社であるが、『延喜式神名帳』に記載されている名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の論社として3社が名乗りを上げているからである。
大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)の所在地は、徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13で、JR徳島駅の北北西、直線距離で約12kmのところにある。
式内社(名神大社)で、旧社格は国幣中社である。主祭神は、大麻比古神{ 天太玉命(あめのふとだまのみこと)のこととされる}である。配祀神として猿田彦大神が祀られている。
境内に由緒書きがあったので、掲載する。
2012年10月26日は、讃岐国一宮の田村神社を参拝し瓦町のスーパーホテル高松田町に宿泊した。27日朝、瓦町から琴電で高松へ行き、JR高松駅から特急うずしおに乗車し徳島へ、徳島で徳島バス大麻線のバスに乗車し終点の「大麻神社前」で下車した。
バス停から歩いて行くと坂東谷川に架る赤い橋が見えた。この橋を渡るとすぐに大麻比古神社の境内入口だった。
境内に入って進むと石段がありこれを昇ると神木の巨大な楠木があった。右手に手水舎があったので、手を清めた。
手水舎から進んで行くと瑞垣があり、入口には神門はないが、二本のコンクリート柱に簡単な注連縄が張られていた。その先は、拝殿である。拝殿で参拝した。
拝殿で参拝した後、瑞垣から出て本殿を拝観した。裏からの本殿も示す。
社殿の裏側には、摂末社の豊受社、山神社、中宮社、丸山稲荷社などがあったが、第一次世界大戦で青島で捕虜になり板東俘虜収容所に収監されていたドイツ兵が製作した眼鏡橋やドイツ橋があった。
参拝が終りバス停まで戻って来ると南側に長い参道が見えたので、参道入口まで歩いてみることにした。かなり長い参道だった。後から調べてみると800mもあった。参道入口には、赤い大鳥居があった。
参拝後は、徳島駅に戻ったが、次は、八倉比売神社参拝である。
八倉比売神社(やくらひけじんじゃ)の正式名称は、天石門別八倉比賣神社である。所在地は、徳島県徳島市国府町矢野531で、JR徳島駅の西南西、直線距離で約8kmのところにあり、阿波史跡公園の中である。
式内社(名神大社)で、旧社格は県社である。主祭神は、大日霊女命(別名天照大神)である。
境内に神社略記があったので、掲載する。
2012年10月27日、阿波国一宮の大麻比古神社を参拝した後、徳島駅に戻った。徳島駅前から徳島バスの鴨島線のバスに乗車し、国道192号にある「鳥坂北」バス停で下車した。このバス停は、神社のほゞ真北にあり、ここから歩いて神社まで約2kmである。
「鳥坂北」バス停で降りて神社へ歩いて行くと右手に徳島市立考古学資料館があった。帰りに見ることにして進んで行った。歩行約20分で八倉比売神社の参道入口に着いた。一ノ鳥居の奥に二ノ鳥居があったが、この鳥居には、正式名称の「天石門別八倉比賣神社」の扁額がかかっていた。
二ノ鳥居を通っていくと右手に箭執(やとり)神社があったが、八倉比売神社と共に古い神社であると記載されていた。進んで行くと阿波史跡公園が見えてきた。公園の左側の道路を進んで行った。
進んで行くと遠方に鳥居が見えた。近づいて見ると木製の八倉比売神社の鳥居であった。バス停からここまで約35分かかっていた。鳥居の先は、長い階段が続いていた。
長い階段を昇って行くと境内に着いた。神門はなくすぐに拝殿であった。
拝殿で参拝した後、右に廻って本殿を拝観した。その後、裏山に入り卑弥呼の墓とも云われる五角形の磐座を見学した。
帰りは、徳島市立考古学資料館に立寄り見学した。この日は、徳島駅前の第一ホテル(\4,500)に宿泊した。翌日は、一宮神社と上一宮大粟神社参拝である。
一宮神社の所在地は、徳島県徳島市国府町矢野531で、JR徳島駅の南西、直線距離で約9kmのところにある。
式内社(名神大社)で、旧社格は県社である。主祭神は、大宜都比売命・天石門別八倉比売命である。
境内に由緒書きはなく、また神社のホームページもないので、Wikipediaの「概要」を転記する。
『鎮座地は徳島市の西部で、周辺は「一宮町」という地名になっており、南方にある山の頂上にはかつて小笠原氏の「一宮城」という城があった。神社の前には四国八十八箇所十三番札所の大日寺があり、神仏習合の時代には一体化していた。元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。』
2012年10月28日、この日は、残念ながら雨だった。大降りではなかったので幸いだった。朝7:10発の徳島バスの神山線のバスに乗車し、「一の宮札所前」で下車した。バス停には、一宮城の大きな案内看板があった。一宮城は、参拝後、行く予定にしている。バス停から少し歩くと前方左側に神社があることがわかった。右側は、大日寺である。
境内に入ると右手に赤い鳥居がありその先に拝殿が見えた。
鳥居をくぐり拝殿へ行き参拝した。参拝後右側に進み本段を拝観した。この本殿は、国重文になっており、寛永7年(1630)の建築だという。
本殿の裏を廻りゆっくり本殿を拝観した。拝殿前から道路の反対側を見ると四国八十八箇所十三番札所の大日寺である。
参拝が終わった後は、一宮城見学に行った。約30分歩行して本丸に到着した。本丸は、石造りであった。写真を2枚載せておく。
一宮城の見学が終りバス停に着いたときは、9:17であった。当初の予定より30分程度早くなっていた。この後は、上一宮大粟神社参拝である。
上一宮大粟神社の所在地は、徳島県名西郡神山町神領 神山町神領西上角330で、JR徳島駅の南西、直線距離で約20kmのところにある。
式内社(名神大社)で、旧社格は郷社である。主祭神は、Wikipediaによると、大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) - またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としている。
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
境内に由緒書きはなく、また神社のホームページもないので、Wikipediaの「歴史」の記事を転載する。
『「延喜式神名帳」に記載される名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の論社の一つである。天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願所となり、元暦2年(1185年)には正一位の神階を授けられた。平安時代には、現在の徳島市一宮町に当社の分祠として一宮神社が創建された。
明治3年(1870年)、社名を「埴生女屋神社」と改められたが、氏子の請願により、明治28年(1895年)に現在の上一宮大粟神社となった。』
2012年10月28日、一宮神社を参拝した後、「一の宮札所前」バス停で神山方面のバスに乗車し、「神山温泉前」で下車した。バスの進行方向に5分程度歩くと左手に大きな鳥居が見えた。上一宮大粟神社の鳥居だった。
鳥居をくぐって行くとすぐに小さい鳥居がありその先に神門があった。神門の先には、手入れの悪いかなり長い参道が続いていた。右側には、舗装した車道があったが、正しい参拝は、参道を通るべきと考え参道を進んで行った。降雨のため悪い参道が更に悪くなっていた。
参道をゆっくり進んで行ったが、残りの1/3位のところから石段になっていた。
石段を昇りきると左手に手水舎、正面は、拝殿であった。
拝殿で参拝した後、右側から本殿を拝観した。
参拝が終わると徳島駅に戻った。徳島駅で特急乾山に乗車し高知に向かった。高知では、土佐国一宮土佐神社参拝である。 (2017/11/5)